毒親の母親への拒否宣言とその一年後の話し合いについて
こんにちは、羽毛です!
以前私は母親についてこんなエントリーを書いていました。
まずはこちらから読んでいただけると幸いです。
今回はその後の私の拒否宣言と対決について話していこうと思います。
それでは、どうぞ!
去年の父の日に拒否宣言!
事件は2018年の父の日に起こりました。
家族のグループLINE(父はLINEをしていないので、母、私、弟)で父の日に近所のおばさん(母親のこと、詳細は以前の記事で。)からこんなようなメッセージが届きました。
「今日は父の日だよ!連絡したの?あなたたち、誰のおかげで生きてこれたと思ってるの?連絡してあげて!」
これを受け取った時私は「今後一切誕生日と母の日、父の日に連絡するのはやめよう」ということと、「母親と一切関わるのをやめよう」と思いました。
なんでそんな過激な?と思うかもしれません。
たしかに父親の稼いだお金で大学まで卒業させてもらって感謝しているけれど、今は独り立ちしているから父のおかげで生活している訳では無いし、なによりも「感謝を強要してきた」ことに、私はもうダメだ…と思いました。
そして私はずっと母親との関係にもやもやを抱えていたので、
思っていることを長文で3分割くらいにして送りました。
要約すると、これだけお母さんに対してしんどい思いをしている、あなたは毒親です、自分がそうではないと思えるようになるまで連絡してこないでください、というものです。
かなりきつい絶縁宣言に近いような内容を送りました。
にもかかわらず、父親から「お母さんが落ち込んでいる」とメール。
ブルータス、お前もか…
私がいい子でいたのは親からの愛情がほしかっただけで、本当にいい子だったわけではない、苦しかったんだという旨をこちらには少し冷静な文章で送りました。
それから、私に直接連絡は来ることなく、グループラインの方に犬の様態が悪いから帰ってきてほしいなど、たまに連絡が入るようになりました。
私は実家の犬の事は好きなので「わかった」とだけ返信する、そういうやとりが半年ほど続きました。
半年後、家族に会うことに
12月のある日、母親からお願いのLINEが届きました。お正月の件です。
うちは毎年母親の実家に集まってお正月をお祝いします。
内容はというと、実家の犬2匹がどちらも老犬で体調が悪いこと、祖父がボケ気味であとどのくらい持つか分からないこと。だからお正月はちょっとだけでもいいから顔を出してほしいということでした。
さすがにこれは人として、行かないとまずいなと思い、
午後から仕事を入れ、朝祖父母の家へ向かいました。
その時両親の態度はよそよそしく、私もほぼ目を合わせませんでした。
タイミングが良かったのは弟家族が赤子を連れてきて、親戚全体のスポットが彼(赤子)に向いていたことです。
私はキッチンでずっと固いローストビーフを切って過ごしていましたw
あの事件があってからは私に何か言ってくることはなかったけど、
弟が一生懸命に手伝いをしていた時「○○はえらいね、どっかのうちのだれかさんと違って」と父親の事を馬鹿にしました。
ああ、やっぱりこの人は昔から今までずっと、誰かを褒めるには誰かを貶さないと褒めるということができないんだな…と思いました。
そして私がうつ病になり(のちに双極性と分かる)、どうしてもの都合で会わなきゃいけなくなった時は毒が抜けているように感じました。
けれども、心のもやもやは晴れないままでした。
更に半年後、実家にしばらく行くことに
5月頃、私の体調はかなり回復していました。
その時に母親が12日間海外旅行に行くので、その間犬の面倒を見てほしいというものでした。
うちにもペットのハリネズミがいるので、ハリネズミも連れていくことの同意を得て、実家に行かなくてはならなくなりました。
(父親も県外にいる弟も働いているため、休職している私に頼んできました)
その時は実家アレルギーだけれども2年前も1週間こなしたし(その時は仕事中は留守番させて朝と夜のご飯をあげて一緒に寝るという生活でした)母親もいないし、父親もなるべく家で仕事をするからということで、大丈夫だと思っていました。
しかし6月に双極性障害と分かり、ラピッドサイクルを起こして薬も調整中の私は、自宅にいるだけでもかなり体調がしんどい状況でした。
それでも約束してしまったのでなんとか12日間任務をこなしました。
母親が帰ってきて、ついに対決…!
そして母親が帰ってきた日、私の恋愛の話になり、「もっと図々しくなってもいいんだよ」と言われ、プチンときて「誰のせいで図々しくできない人間になってしまったと思ってるの」と泣きながらキレて別の部屋に行きました。
しかしトイレに行きたい私、リビングを通らないといけないのでリビングの方に行くと「お茶飲まない?」 と言われたのでカモミールティーを作ってもらいました。
「さっきはごめんね」というと、母親は「ううん、大丈夫」と言いました。
何が大丈夫なのだろうこの人は…「お母さんからは、何もないの?」
ここからがキックオフ、プレーボール、試合開始です。
私が幼少期から思っていたこと、母親の「そういうつもりじゃなかった」の繰り返し。
間に父親が入って私が言いたいことを母親にもわかりやすく説明してくれて、自分が悪かった事を認識してくれるようになりました。
でも私が高校生の時実際に起きた話(お酒飲みながらパブロンODとか)をしても記憶がなかったりして、母親の中でもいろいろ大変な時期で、私に構う余裕がなかったんだな、と思うこともできました。
つまり、思春期の頃の私は放任され、大人になって過干渉をされていたんだと気付きました。
そして今後は、「ごはんなどに誘わないでほしい」「心配であってもたくさん連絡をしてこないでほしい」と伝え、
向こうからは、「何か変化があった時は伝えてほしい」「お正月にだけは顔を出してほしい」ということで話がまとまりました。
あー10代の頃に愛されたかったな。でももう時間は戻らないので、今後いい距離感でやっていきたいと思っています。
今までは話し合いをしても「でも私もつらかった」とか「そうじゃない」ばかりだったけれど、父親が間にいてくれたことできちんと話し合いができたと思います。
まとめ
毒親と真っ向から対決したのは何度かあって傷付いたことが多いので、話し合うのが大事だとは決して言いません。家族統合が理想だなんで全く思ってないので。
けれど、今回話し合う機会があったので、母親にカウンセリングを勧めながら、たまたまうまく話し合いをすることができました。
今後どうなっていくかわかりませんが、温かく見守っていただければ幸いです